公開日:2023年10月16日
大夕張と呼ばれた地のダム湖・シューパロ湖で、沈みゆく鉄道遺構を空撮する【廃なるものを求めて】
今回は北海道の話です。夕張より東側に大夕張と呼ばれた地があり、そこにはシューパロ湖というダム湖があります。この名を聞いて「ああ、ダムに沈んだ森林鉄道の三弦橋か」と連想した方は、きっとこの記事の写真を食い入るように見ることでしょう。2013年9月、拡張されるシューパロ湖へと沈む予定の下夕張森林鉄道などの遺構を空撮しました。
ダム湖へ沈みゆく三弦橋と重鋼桁を空撮
この空撮は、狩勝峠を目指して札幌の丘珠空港からセスナ機で飛んだとき、夕張を通過するために立ち寄ったものです。
シューパロ湖は昭和37(1962)年の大夕張ダム竣工によって誕生したダム湖でしたが、農業用水や治水などを目的とした大型の多目的ダムが必要となり、大夕張ダムのすぐ下流側に一回り大きな夕張シューパロダムを建設し、大夕張ダムの堤体ごと沈めてシューパロ湖を拡張する、ダイナミックなダム工事が行われました。夕張シューパロダムの竣工は平成26(2015)年です。
そしてダム湖が拡張されると、シューパロ湖沿いにあった大夕張の街、下夕張森林鉄道夕張岳線、炭鉱輸送を支えた大夕張鉄道の遺構が沈みます。それらの遺構には、昭和39(1964)年廃止となった夕張岳線の三弦トラス橋や九九式重鋼桁、昭和62(1987)年廃止の大夕張鉄道のトラスドガーター橋など、橋の歴史を物語るうえで貴重な構造の橋梁があったのです。
私がシューパロ湖と大夕張へ訪れたのは、1997〜98年のこと。大学の写真学科でドキュメントコースを専攻し、廃墟の撮影とダムで沈みゆく街並みを記録しようと、中心街の鹿島地区へ訪ねました。炭鉱によって最盛期には約2万5000人の人口を誇った大夕張も、炭鉱の閉山や人口流出により人口が1000人を切り、炭鉱住宅や商店街などは廃屋だらけとなりました。私が訪れた時点で、既に夕張シューパロダムの計画が進んでおり、この地に人が住まなくなることは時間の問題でした。人のいなくなった街はうら淋しかったです。
「三弦橋」「三弦トラス橋」と呼ばれた夕張岳線の第一号橋梁は、シューパロ湖沿いから遠望できました。第一号橋梁は大夕張ダム竣工によって元々の軌道が水没するため、軌道の移設と共に架けられたものです。通常のよく見るトラス橋は下弦材2本と上弦材2本の四角形ですが、この橋梁は下弦材2本に対して上弦材1本の三角形という変わった出で立ちだったのです。
なぜそのような形状となったのか、いろいろな書物に書かれていたことによると、経費削減だそうです。当然、断面は三角形ですから列車を通すスペースは小さい。普通の車両ならば建築限界で通れないですが、軽便規格の森林鉄道ならば車体も小さいため、三弦でもいけたとのことです。三弦トラス橋は鉄道や自動車橋には使用しにくいのですが、導水管のような小ぶりのものを通すトラス橋には時々使われています。
三弦橋だけではなく旧陸軍の組立式橋梁も残存していた
大夕張を取材したときの記憶が残り、夕張の上空を通過するタイミングで空撮しようと、2013年9月に記録。飛行時間は限られていたため、いくつかピックアップして空撮しました。そこで、どうしても撮りたかった下夕張森林鉄道の三弦橋と、旧日本陸軍の九九式重鋼桁を上空から狙ったのです。これらの橋梁はシューパロ湖に架かっていたり対岸の森林地帯であったりと、訪れること自体が困難です。自由度の利く上空ならではの視点で記録しました。
さて、三弦橋についてはざっくり説明しましたが、九九式重鋼桁とはなんぞや?ですよね。この桁は旧日本陸軍が開発した組立式のトラス桁で、戦地などで橋を仮設に使用されました。主に鉄道へ使用され、重量のある蒸気機関車にも耐えられる設計でした。
組立式トラス桁は昭和初期に軽量の「軽鋼桁」が開発され、その後改良が続けられて、1939年に九九式重鋼桁を開発。戦時中は各地の戦地で使用され、戦後は国内の橋梁を仮橋する際に役立ったそうです。なお重鋼桁はJKT、軽鋼桁はKKTとの略称で、JKTは、J=重い、K=構桁(トラス)、T=鉄道。KKTはK=軽い、K=構桁、T=鉄道と符号されていました。なので、大夕張の重鋼桁は文献によってJKTとも記されています。
もう一箇所、大夕張鉄道にも気になる橋梁がありました。旭沢橋梁といい、「トラスドガーダー」と呼称する種類となります。デッキガーターの下側、橋脚との間にトラスが逆さまの状態でくっついているのが特徴です。見るからに面白い構造をしており、鹿島地区へ訪れたときも、当時の国道沿いから「変な形の鉄橋だなぁ」と見入っていました。
大夕張鉄道には旭沢橋梁と同じ構造の橋梁がいくつか存在していましたが、シューパロ湖の誕生によって谷間が埋まるなど橋梁の撤去が進み、旭沢橋梁が最後まで残った橋の一ヶ所となります。
やがて沈む橋梁をクローズアップして上空観察する
空撮は狩勝峠へ行く往路に少し撮り、復路でシューパロ湖を旋回しながら撮りました。石勝線から夕張岳を避けつつ大夕張の上空へ到達すると、さすが山間部だけあって雲が集まっており、影と晴れのマダラ模様となってしまいます。とはいえ、日にちを変えてスカッとした陽気で再チャレンジするには、ちょっとリスクが高かったので我慢して撮ります。
鹿島地区は建物がなく、水没する白金橋の代替え道路が立派でした。まずは旭沢橋梁です。国道は既に移設されており、旧国道と並んで旭沢橋梁のトラスドガーダー橋が見つかりました。谷間の森に錆びついた橋梁がしっかりと見えます。線路を支えていたIビームの1本線のトレッスル橋には、トラス構造が逆さまにぶら下がるようになっており、以前見た姿と変わりがありません。ときおり雲影となったり、逆光の淡い陽光に包まれたり、その度に複雑な部材が織りなす鉄骨美が浮かび上がります。美しい姿だ。
三弦橋は湖畔を結んで健在です。朱色に塗られた三角形のトラス橋は、上弦材が1本しかないために、普段のトラス橋を空撮する時よりも不思議な感覚となります。四角ではないからうまく平行が取りにくい。でも、仮にここを列車が走っていたら、さぞかし面白い光景だったのだろうなぁ。三弦橋は褐色の湖面に三角形の幾何学模様を浮かび上がらせます。水没すればもう二度と撮れないだろうと、何度もレンズを向けて撮影していました。
そして九九式重鋼桁は、三弦橋の少し北側に架かっていました。第6号橋梁と呼ばれるそれは、重鋼桁が二段積みとなっており、ダブルワーレントラス橋のような重厚な雰囲気を醸し出しています。二段重ねが豪勢です。これは近づいて仰ぎ見たかった。重鋼桁は架設時にピン結合をしますが、さすがに上空から観察することはできません。そのかわり、トラスの上部がチェックできたのは嬉しいです。桁の鋼材が幾重にも重なってにじんでいるように見え、最初はピントがずれているのかなぁと錯覚しましたが、こういう軍用橋は細かく分解して輸送するため、結合部が多いのかと思われます。
重鋼桁が架けられたのは、終戦後の1948年ごろから段階的で、それまで木橋だった橋を鉄橋へするにも鋼材が不足し、あちらこちらから調達したなかに重鋼桁が混ざっていたとのことで、この桁を選別して架橋したわけではなさそうです。
もう二度と撮れないと思うと、とにかく短時間に可能な限り撮影しました。二度といえば、大夕張ダムの堤体もそうです。目の前にシューパロダムの堤体が竣工しつつあり、ダムの中にダムがあって、「なんだこりゃ」と呟いてしまうほど不思議な光景です。埋もれゆくダム……。これも一種の廃なるものか。湛水が開始されれば、大夕張ダムは水底です。既存のダムごと沈めるというのは聞いたことあるのですが、実際にこの目で、しかも空撮という俯瞰した目で目撃すると衝撃的です。
今回は10年前の空撮写真をじっくりご覧いただき、ぜひとも大夕張の遺構を目に焼き付けてください。そうそう、夕張シューパロダムの下流側にあった南大夕張駅の跡地には、大夕張鉄道の車両(ラッセル車、客車)が保存されています。1997年に訪れたときは荒廃していたのですが、現在は美しく補修されています。
また、夕張川の上流の方には林道に転用された重鋼桁があります。そちらは水没を免れているので、気になる存在です。いつか、大型カメラを担いで訪れたい。
<おまけ、下夕張森林鉄道夕張岳線、その他の橋梁>
取材・文・撮影=吉永陽一
吉永陽一
写真家・フォトグラファー
鉄道の空撮「空鉄(そらてつ)」を日々発表しているが、実は学生時代から廃墟や廃線跡などの「廃もの」を愛し、廃墟が最大級の人生の癒やしである。廃鉱の大判写真を寝床の傍らに飾り、廃墟で寝起きする疑似体験を20数年間行なっている。部屋に荷物が多すぎ、だんだんと部屋が廃墟になりつつあり、居心地が良い。